2019年4月に、元お寿司屋さんの建物を落語会場用にリフォームし、夕やけだんだん下に「にっぽり館」をオープン。谷中の観光名所の近くという立地で、地元の方および落語に馴染みの無い方にも楽しんでもらい、落語の裾野を広げようという試みでした。
しかし2021年にはコロナ禍のため休館となったことも。公演再開後は、地域再開発のため夕やけだんだん下からの移転を余儀なくされ、2023年5月、晴れて当地にて新たな建物で新規オープンいたしました。
これからも地域に落語と笑いを届けて参ります!
「落語は初めて」という方も、どうぞ遠慮なくふらりとお運びください!
にっぽり館の近くには、江戸時代たいそう評判だった茶屋の看板娘・笠森お仙のいた笠森稲荷があります。
美人と評された娘をひとめ見ようと江戸中から多くの人たちが集まったお仙さんにあやかり、にっぽり館内には鈴木春信が描いたお仙の浮世絵を飾っています。
その絵にもあるように、見物人がお仙を眺め縁台でくつろぐ姿からヒントを得て、館内には桟敷席をご用意いたしました。靴を脱いで畳敷きの席で落語演芸をのんびりご観覧ください。
また、受付では「落語演芸茶屋」の名の通り、ドリンクなども販売しております。
「一日中過ごしても飽きない里=日暮らしの里」から名付けられた当地・日暮里にて、落語演芸を一日ゆったりとお楽しみください。
笠森お仙(1751〜1827年)は、江戸時代、谷中の笠森稲荷前にあった水茶屋(=休息のための茶屋)・鍵屋の看板娘。鈴木春信(1725〜1770年)の美人画に描かれ、その美しさは江戸中の評判となり、「明和三美人」の一人にも数えられました。
その人気から手ぬぐいや人形などのグッズも販売され、手鞠唄にも歌われました。
「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ腰をかけたら 渋茶を出した 渋茶よこよこ 横目で見たらば 米の団子か 土の団子か お団子団子 この団子を 犬にやろうか 猫にやろうか とうとうとんびに さらわれた」
ちなみに、この手鞠唄を元に明治中期に活躍した初代三遊亭圓遊(1850〜1907年)はステテコ踊りを生み出し、「珍芸四天王」として人気を博しました。なお「珍芸四天王」にはヘラヘラ踊りで有名な初代三遊亭萬橘も数えられています。
お仙および笠森稲荷にまつわる場所がにっぽり館近隣に3箇所あります。
①大圓寺 ②功徳林寺 ③養寿院です。
①大圓寺
「笠森お仙と鈴木春信の碑」、永井荷風による「笠森阿仙乃碑」がありますが、当地は1803年に小石川から移された「瘡守稲荷」が由来のため、厳密にはお仙がいた笠森稲荷ではありません。
「笠森」が「瘡守(かさもり)」に通じることから、疱瘡除けや病気平癒のご利益を期待して、大阪にある笠森稲荷から分祀する形で、「笠森稲荷」は全国に広がりました。そのうちのひとつであるといえます。
②功徳林寺
お仙が働く水茶屋・鍵屋があった場所とされています。
境内に笠森稲荷堂がありますが、これはのちに建てられたもののようです。
③養寿院
お仙がいた笠森稲荷は移転され、当地にあります。お仙がいた当時の笠森稲荷といわれています。
にっぽり館ご来館の折りには、ぜひ併せてお立ち寄りいただき、歴史に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか(各寺院の写真はアクセスの各リンクよりご覧ください)。
ちなみに、お仙は1770年ごろに鍵屋から突然姿を消します。お仙目当てで訪れた客は、老齢の父親が店にいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行したそうです。
実はお仙は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主・倉地政之助に嫁いだのでした。9人の子宝にも恵まれ、長寿をまっとうしたとのことです。
「明和三美人」のうち、笠森お仙(右)と浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘・お藤(左)。中央は歌舞伎役者・二代目瀬川菊之丞